エピジェネティクス進化論

ジャン=バティスト・ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck)

 

ラマルクの経歴

進化をはじめて包括的に述べた人物として有名なラマルク。彼は、いったいどのような人生を送ってきたのでしょうか?

ラマルク(1744 - 1829)は、フランス革命が起こる少し前、ブルボン朝フランスの貧しい下級貴族の11番目の子供として生まれました。

1750年代後半、父親の願いにより、ラマルクは、アミアンにあるイエズス会修道士大学に入学しました。

ラマルクの家では、男子は陸軍に入るのが慣わしで、ラマルクもそれに従い陸軍に入隊しました。ラマルクの兄たちも陸軍に入隊しており、ラマルクの一番上の兄は、Bergen-op-Zoomの包囲攻撃で戦死しました。ラマルクが10代で入隊したときには、二人の兄が軍隊にいました。

1760年に父親がなくなると、ラマルクは馬を買い、ドイツに滞在していた陸軍に加わるために出発しました。

ラマルクは、とても勇敢な軍人だったようです。

プロイセンを相手に戦ったポメラニアの戦争では、ラマルクが属していた小隊は、敵の銃撃にさらされて多くが戦死し、わずか14名で上官がいないという状態になりました。

貴族出身だということから、弱冠17歳のラマルクが小隊の指揮をとることになり、「撤退しよう」という仲間の意見に対して、ラマルクは命令があるまでその場に踏みとどまることを主張し、持ち場を守り続けました。

ラマルクの勇気と忠誠は、連隊長に認められ、彼は、士官へ昇進することになりました。

陸軍で順調に出世していたラマルクの人生は、思わぬところから方向転換することになりました。陸軍の僚友がふざけてラマルクの頭を持って持ち上げたときに、首のリンパ腺を痛め、治療のためパリに送られることになったのです。

パリで難しい手術を受け、1年間の療養生活を送った後、ラマルクは、陸軍に戻らずモナコ駐屯地に定住することになりました。

彼は、そこで、James Francis Chomellによって書かれた『Traite des plantes usuelles』という植物学の本と運命的な出会いをしました。彼と生物との関わりはここから始まりました。

退役軍人に与えられるわずか400フランの年金だけでは生活できなかったため、ラマルクは職を探すことにしました。

ラマルクは、はじめ医師になろうと思い、銀行で働きながら医学を勉強しました。4年間医学を学んだものの、兄に説得され、医師になることを断念しました。

ラマルクは、医師を目指す一方で、植物学に強い興味を持つようになっていました。医師をあきらめたラマルクは、植物学研究の道に進むことを決め、著名なフランスの博物学者、Bernard de Jussieuの元で10年間、フランスの植物相について学びましました。

1778年に、彼は、フランスの植物相に関する10年間の研究結果をまとめ、『Flora francaise』という全3巻からなる本を出版しました。

ラマルクのこの本は、フランスの学者から高く評価され、フランス科学界において、一躍、有名人になりました。

1778年8月8日に、34歳になったラマルクはマリー・アン・ロザリー・ドラポルトと結婚しました。

このころ、当時のフランス最高の科学者の一人であったジョージ - ルイ・ルクレール、コント・ドゥ・ビュフォンに認められ、彼の推薦で、1779年にフランス科学アカデミーのメンバーになり、自然誌博物館の職に就く事になりました。

1781年には、最初の子、アンドレが生まれました。

ラマルクは、2年間、海外の植物園や博物館を巡り、フランスでは見られない珍しい植物や、鉱物、鉱石などを持ち帰りました。

1786年に、次男のアントワンが生まれました。

ビュフォンの後を次いでロイヤルガーデンの管理者になったBilladerieは、ラマルクのために年収1000フランの職を新しく作りました。それは、ロイヤルガーデンの植物標本の管理者の職でした。

1789年、フランス革命が起きました。ラマルクはこれを熱烈に歓迎し、貴族の称号を破り捨てました。一方、ラマルクが勤めていたロイヤルガーデンは、ルイ14世との関連性を髣髴させる「ロイヤル」のついた名前を変更しました。

ラマルクは、植物標本の管理者を5年間勤め、1793年、植物園の館長と無脊椎動物学の教授に任命されました。植物標本の管理者として働いているときに、ラマルクの妻は、3人目の子供を出産し、その直後に亡くなりました。

ラマルクの教授としての年収は、2500フランでした。これは、生活をしていくのに十分な額でした。

ラマルクは、翌年、30歳年下のシャーロット・ルベルディと再婚しました。ラマルク50歳、シャーロット20歳でした。

1794年、ラマルクは、博物館の教授会の書記官として任命されました。

1797年に2番目の妻、シャーロットが亡くなり、翌年、3人目の妻、ジュリー・マレットと結婚しました。しかし、ジュリーも1819年に亡くなりました。

教授になってから最初の6年間で、ラマルクはたった1本の論文しか書きませんでした。唯一の論文は、月が大気に及ぼす影響を論じたものでした。

無脊椎動物の研究をするようになってから、ラマルクは種の形成と変化について考えるようになりました。

最初は、ラマルクは、当時、広く信じられていたように、種は変化しないと考えていたのですが、パリ盆地の軟体動物に関して研究を行って以来、種が長い時間をかけて変化してきのだと考えるようになりました。

1800年、ラマルクは博物館で講義を行いました。ラマルクが進化について意見を述べたのは、この講義が最初でした。

1801年、ラマルクは、無脊椎動物の分類に関する本『Systeme des Animaux sans Vertebres』を出版しました。この本の中で、ラマルクは、無脊椎動物のグループを新しく定義しました。ちなみに、「無脊椎動物」という名前は、ラマラクがつけたものです。

彼は、棘皮動物、甲殻類、クモ類を分類し、ベルメシュと呼ばれていた分類群から分離しました。

はじめて、クモ類を昆虫から区別し、甲殻類を昆虫とは別の類へ動かしたのは、ラマルクです。

1802年、ラマルクは、『Hydrogeologie』を出版しました。そこで、彼は、「biology」という言葉をはじめて現代的な意味で使いました。

無脊椎動物の研究をはじめて以来、生物の種は長い時間をかけて変化してきたということを確信するようになっていたラマルクは、この本の中で斉一説を支持する立場をとりました。

斉一説というのは、地質学の分野の学説の一つで、自然法則の一定性に基づいて過去の地質現象を調べていくというものでした。

ラマルクがこの本を書いた当時は、地質学では、天変地異説と斉一説の2つが対立していて、化石や地層の解釈をめぐって争っていました。

キリスト教社会においては、地層や化石が天地創造よりも古いものであるという考えは、聖書の記述と合わないため、化石の起源について、当時は、ノアの箱舟の証拠とする考えが支配的でした。

天変地異説の論客として有名なのはキュビエです。実証主義的な科学者であったキュビエは、実験・観測を通して種の不変性を確信しました。化石の中には、現在は存在しない形状のものがあることから、それらを合理的に説明するため、過去に何度もノアの洪水のような天変地異があり、ほとんどの生物が死滅した出来事があったと仮定しました。

斉一説を唱えたのは、イギリスのジェームズ・ハットンです。彼は、著書『地球の理論』(1788年)において、天変地異説を否定し、斉一説を唱えました。

ハットンの主張は次のようなものです。

  • 過去の地質現象は、現在の自然現象を注意深く観察することによって知ることができる
  • 過去の地質時代の諸現象も、現在の自然の法則で生起した

つまり、地質現象は、きわめて長い時間でゆっくりとおこり、天変地異のような「特別な事件」ではなく、そのゆっくりとした変化によって、生物の種の変化を説明することができると考えていました。

ラマルクは、地球には東から西へと流れる大域的な海流の流れがあるとあり、大陸の東側を侵食し、西側に堆積するため、大陸は地球の周りをゆっくりと西へ移動していると考えました。

この年、ラマルクは、『Recherches sur l'Organisation des Corps Vivants』を出版し、その中で、進化に対する自分の理論を述べました。

ラマルクは、すべての生物は、すべて関連を持っており、下等なものから高等なものまで段階的に変化するものだと信じていました。それゆえ、自然界で進化的な発展が起こっていると考えていました。

ラマルクは、当時、広く名声を集めていた古生物学者ジョージ・キュビエと対立することになりました。というのも、キュビエは、天変地異説を支持しており、進化を認めていなかったからです。

Bowlerによると、キュビエは、ラマルクの進化論を嘲笑し、種の不変性を擁護しました。

キュビエは、現在の物質主義的なものの見方とは対立しますが、だからといって、キュビエが種の起源を神に帰していたというわけではありません。

キュビエは、生物の新しい形態が生まれる原因や、人間の誕生などについては、慎重に中立の立場をとっていました。

ラマルクは、次第に視力を失っていき、1829年12月18日にパリで亡くなりました。

ラマルクが亡くなったとき、ラマルク家は貧困のためアカデミーに金融支援を頼まなければなりませんでした。

ラマルクの本や家財道具はオークションにかけられ、彼の遺体は一時的に石灰窯に入れられました。

彼の死後、キュビエは、公開広場での追悼演説でラマルクを非難しました。

 

 

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