エピジェネティクス進化論

ポール・カンメラー(Paul Kanmerer)

画像は、Wikipediaからお借りしました。

 

カンメラーの経歴

カンメラー家は、サクソン人の血統で、その先祖はトランシルヴァニアに移住し、さらに、その子孫がウィーンへ移住した。

ポール・カンメラー(Paul Kanmerer)は、1880年8月17日ウィーンで生まれた。

カンメラー家は裕福で、父のカール・カンメラーは、オーストリア第一の光学機器工場の創立者であり、共同経営者であった。

カール・カンメラーはハンガリー出身の未亡人と再婚し、ポール・カンメラーが生まれたときには、すでに3人の成人した兄がいた。兄は、英国へ留学し、英国の影響を強く受けて帰ってきた。

カンメラーは、犬、ヘビ、トカゲ、カエル、ガマなどあらゆる動物と親しくなるという特殊な才能を子供の頃から見せた。

ギムナジウムで大学入学資格を取得後、ウィーン音楽アカデミーに入り、和声学と作曲を学んだ。

このころから、カンメラーの「わが道を行く」傾向は目立っていた。

ウィーン大学で動物学を修め、博士号を授与されるとすぐ、1903年23歳のときに、プシブラムの誘いで実験生物学研究所へ入った。

プシブラム家は、プラハ出身の科学者一家であり、プシブラムは、ヴィヴァリウムを生物学の実験を専門に行う最初の科学的研究所として改造した。そこでは、多くの先駆的な研究が行われた。

例を挙げると、

・カール・フォン・フリッシュが、蜜蜂のダンス言語を発見する
・ポール・ヴァイスが、両生類に四肢の移植実験を行う
・コパニーにが、ねずみで目の移植実験を行う
・フィンクレルが、昆虫のオスの頭をメスに移植
・シュタイナハが、生殖腺の内分泌を刺激する若返り実験を行う

このような先駆的な実験により、所員の発表する実験は、世間から不信の目で見られ、激しい論争を引き起こしていた。


実験生物学研究所へ入ったカンメラーは、カンメラーは、両生類を用いて、獲得形質の遺伝に関する数々の実験を行った。

1904年には、博士号取得し、1906年には大学講師に任命された。この年、カンメラーは、フェリシタス・マリア・テオドラ・フォン・ヴィーデルスペルクと結婚した。

1907年は、娘のラツェルタが生まれた。

彼は、トカゲ類に関して特別な才能を見せた。人工的に孵化させた環境下で両生類を生殖させることができたのは、彼以外にいなかった。このことは、後にカンメラーの実験を誰も追試できないという悲劇につながった。

カンメラーの実験方法は、動物をその自然の生息地とは極端に異なる環境下、例えば、異なる気候条件とか、黒土の代わりに黄土とか、で育て、体格、色、交尾習性などにおける変化を引き起こし、これらの適応のための変化が遺伝するかどうかを知ることにあった。ある場合には、人工的環境下で飼育した一世代目に、その他の場合には、5,6世代後になってから、それらの変化は遺伝するというのが、彼の論点だった。

主なものをあげると、

・サンショウウオの生殖実験
・変種サラマンドラ・マキュロサ・フォルマ・ティピカの体色の実験
・サンバガエル、アリテス・オブステトリカンスの実験
・ユウレイボヤ(チオナ・インテスティナリス)の水管の伸張実験
・プロテウスの眼の誘導

カンメラーの論文は
『生物発生機構学誌』Archiv Entwicklungsmechanik der Organismen
『生物学中央誌』Zentralblatt fur Physiologie
 ナトゥール誌(ライプチッヒ)
 ネイチャー誌
などの専門的な科学雑誌に投稿された。

また、一般の読者を対象とした本には、『一般生物学』『連続の法則』がある。

カンメラーに悪意を抱いた後世の人は、「単なる売れっ子のジャーナリストであり、素人にすぎない」という印象を作り上げようとしたが、それは誤りである。

獲得形質の遺伝の実験を行ったカンメラーの研究は、新ダーウィン主義の遺伝学者の攻撃の的となった。

英国の新ダーウィン主義の遺伝学者ウィリアム・ベイトソンは、14年間にわたってカンメラーと論争を続け、サンバガエルの婚姻瘤の存在を否定した。

第一次世界大戦によるインフレで、オーストリアの中流階級は崩壊し、カンメラーは財産を失った。実験生物学研究所の実験動物の大半は死に、標本のほとんどはなくなってしまった。発情期に入ったばかりのサンバガエルのオスが一匹だけ残っており、最後の標本となった。カンメラーは生活のために、一般向けの記事を書くことと講演に追われるようになった。

1923年に、カンメラーは英国とアメリカ合衆国を訪問し、講演を行った。この一般向け講演は大成功だったが、講演の後援者や新聞記者は、センセーショナルな雰囲気をかきたてたため、科学の分野でのカンメラーの評判は決定的に損なわれた。

例えば、デイリー・エクスプレスは、6段抜きの記事で、

「驚嘆すべき科学的発見」

「盲目の動物に発生した眼ー科学者、好ましい性質伝達の法を発見す」
「遺伝学の天才ー人類の変革」

「スーパーマン族
科学者の偉大な発見−われわれを皆遺伝的天才に変え得る可能性
盲目の動物に眼が発生」

などと報じ、ニューヨーク・ワールド紙は、

「今世紀最高のウィーンの生物学者ーダーウィン理論を立証
ケンブリッジ大学科学者の賞賛を勝ち取る」

「ダーウィンの失敗を補う科学者の成功
イモリに発生した眼は獲得形質の遺伝を示すか?
オーストリアの学者に栄冠
最良の性質が遺伝されれば進化は促進される」

などと報じた。

1924年2月に、カンメラーは再びアメリカを訪問し、そのときに、『獲得形質の遺伝』を出版した。

カンメラーは、変人で有名なアンナ・ヴォルトと恋に落ち、長年連れ添ったフェリシタシスと離婚したが、結婚はわずか数ヶ月しか続かず、カンメラーは致死量を超える睡眠薬を飲んだが吐いてしまった。その後、抑鬱状態が続き、再びフェリシタシスと一緒に暮らすようになった。カンメラーは、それ以後、躁鬱病を患うようになった。

1926年『島の種の変態とその原因−ダルマチア諸島のトカゲ類の比較実験研究による確認』を出版した。この本の中で、カンメラーは、島のトカゲには主として2種があり、住んでいる島によって、大きさや色が非常に異なることの着目し、孤立状態が新しい変種を生み出すのを助け、かつ促進したのではないかと考えた。そして、環境の性質、温度、湿度、明るさ、動物の分布状態などが個体の適応を引き起こし、ついには遺伝性となる変化と係わり合いを持つようになったのではないかという仮説を唱えた。そして、環境を変えることによってトカゲの色の変化を引き起こす実験を行い、緑を黒に、黒を緑に、その変化が遺伝性になることを示し得たと発表した。しかし、その標本は戦中戦後を通して保存状態が悪かったため、皆、色があせてしまった。

1926年8月7日のNatureに、アメリカ自然科学博物館爬虫類部門の主事 G・K・ノーブル博士の投稿記事が載り、その中で、サンバガエルのアリテス標本にはごまかしがあったと断言した。ノーブル博士が標本を調べると、その6週間後にカンメラーはピストル自殺した。

カンメラーの自殺の原因は不明。「カンメラー事件」は、生物学史上、最大のスキャンダルと言われている。

■参考文献

Did Paul Kammerer Discover Epigenetic Inheritance? A Modern Look at the Controversial Midwife Toad Experiments


 

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